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◆ふるさと女川に想う

ワンコインのブログに 女川出身の方より記事をいただきましたので、ご紹介させていただきます。

*・*・*・*・*・*
茶論ワンコインのブログに被災地女川に対する活動をみる機会に恵まれた。

壊滅的な惨状を衛星写真で追ってみても女川には見えない。女川はどこに行ってしまったと思うのは私だけではないだろう。

ある日『女川に元気を送る会』から便りが来た。
震災から1ヵ月後に支援団体『女川に元気を送る会』が立ち上げられた。
この会は、女川出身の人々が壊滅的な被害を被った故郷の復興を目指して奮闘する地元に元気を送りたい願いを込めて結集された支援団体である。
呼びかけ人は、都立多摩医療センター副院長の村井善郎氏、福島大学前学長今野順夫氏、俳優の中村雅俊氏の各位が名を連ねている。
女川出身とその関係者に復興資金をお願いする活動を主体としている。

衛星写真で見る地形は瓦礫の山と化し、まるで賽ノ河原と言った様子に映る。
1957年迄、17年間女川に住み、石巻高校にジーゼル列車で通学した頃が蘇る。
季節になれば港で鯵やボラ、たこ、うなぎ、を釣って遊んだ頃が思い出される。
夏になれば、スッ裸で飛び込んで遊んだ優しい海が、一変して人、家、自動車、全てをさらっていこうとは、正に悪夢を見たかのようである。
幼いころに母から幾度も聴いた釜石の大津波の話は今でも記憶に残る。
地震が来たら高い所に逃げろ!!

大船渡に住む親せきの2家族は命カラがら高台に避難し難を免れている。
歳老いた体験者から常日頃聴いたことを守った結果である。
被災から10日余り電話も通じなく、インターネットで避難個所の名簿問い合わせをしたが安否情報もなく半ばあきらめていたところ連絡が入った。
生きてたよ! 元気な声だった。
仕事中であったが、地震がおさまった直後すぐ家に戻り、高齢の母親を毛布にくるんで車に乗せ川伝いに避難する車の渋滞を避けて高台に逃げ切ったと聞いた。
川伝いに逃げていたら多分生きていなかったようである。
先日、避難先で母親が家に帰りたいと駄々をこねるので、家のあった場所に連れて行きやっと現実が理解され納得したと言う。
持ちモノの全てを津波にもっていかれた今は、全国からの支援物資で命をつないでいる。

数日前電話が鳴った。ばあちゃんいつどうなるか心配だから写真送ってくれと・・・・。
被災地では長期に亘る避難生活で亡くなる高齢者が出ている様子である。
8年も前に写真を貰ったので何処にあるか見当もつかない。1日中探しまくりおかげで整理がついたが肝心の写真が見つからない。半ばあきらめた翌日突然家内が閃いた所にその写真はあった。
早速当座の着るものや食糧を入れ送ってあげたが、写真を使うことが起きないよう祈っている。
先日もテレビで金庫がとんでもない場所から発見されていると報道されていたがこの親戚も隣町で、使っていた金庫が見つかった。
中をあけ5000万円がなくなったと立ち合い警察官に言ったら初めからないんじゃないのと冗談が見破られたと笑っていた。
瓦礫が取り除かれ作業が進むにつれ、ご遺体も多く発見されている。
歯形照合で関係者のご苦労が偲ばれる。 合掌


一方、東松島に住んでいた親戚は隣の人の車に乗せてもらい命拾いをした。
地震が来たらすぐ逃げる教訓がここでも活きた。
命の恩人はやはりとなり近所である。特に東北の人々は地域社会で支えあい、協力して助け合う間柄にある。都会ではみられない人間関係がある。
この被災で伝わる助け合い、分かち合い、感謝の姿勢、そしておかれた自分の使命感は人の心を揺さぶる。
文句を言わない東北気質は今でも健在、これからも継承していく財産だ。
海で育ち海が好きな漁師の父をもつ子どもがこの好きな町の復興の為に漁師になるときっぱり言い切る。
それも小学生である。 大好きな父を亡くしている。
困難な中に置かれた人間が本来の活きる能力を呼び醒ました様に見えてくる。

女川から移り住んだ東松島は、たまに帰ると鳴瀬川の河口に膝まで入りハマグリほどの大きな貝をツイストのように動きながら半時間でバケツ一杯も取れる環境にあった。川を少し遡れば大きなしじみがザル一杯にとれた。
今その場所は地盤沈下で指定区域になっている。
親戚の家は瓦礫が入り住める状況ではない。津波が怖いので二度と住みたくないと結論を出した。取り壊しの対象に登録された。
自分の両親が住んでいた家も同様である。130坪のわたしの土地に不審入車が4台腹を見せて横たわっている。衛星写真で確認することができた。便利な時代だ。

近くの2階建ての浜市小学校は避難場所に指定され405人が屋上に上がって助かった。
現地の情報によれば、屋上に上る鉄扉の鍵が職員室に置いてありそこは既に水没していた。
その時一人の教員が2階の6年生の教室に合鍵があることを思い出し、無事扉が開き避難に成功している。今後は合鍵を扉の近くに置くことに変えた。
先日、東松島の小野市民センターに避難所生活している親戚から小野市民センターは日本一豊かな避難所です。わたしたちは世界中の人々に支えられている気がします。と手紙が来た。
正に世界の人々が救援活動をしている実感を現地は感じとれるのだろう。
感謝 感謝


救援活動を通してある寺のご住職と出会いがあった。
この住職は葬儀の合間を縫って被災地に出向き炊きダシを提供している。3ヶ月間に亘った活動の報告会が100名の檀家を集め寺の集会室で行なわれた。
参加費用は500円、集まったお金はNGOヒューマンシールド神戸 吉村誠司氏に渡された。この方は神戸の震災でも活躍され被災地には翌日飛んでいく怪人である。
現在石巻に救援拠点を置き周辺のボランティアの指揮を執っている。
その報告会からのお話を紹介する。

三陸町防災無線室で 『町民のみなさん大きな津波がきます。早く非難して下さい』 と連呼し続けた遠藤未希(25歳)さんは命をかけて職務に殉じた。
その声かけでどれほど多くの人たちの命を救ったか。
この純真な使命感に感銘を受けた寺のご住職は、被災3日後にその現場を訪れた。そして、3階に刃のように突き刺さる木片をみて、どんなに苦しく悔しかったか。
暫くお経を唱え涙しかなかったと述懐した。
そしてその後その場で誓った。毎週訪れあなたの恩に報いると・・・・。

その住職はその誓いを果たす為毎週東北を訪れ炊き出しをして現地に生きる希望を灯している。
人間温かい物を食べれば暖かい心になります。食べたいものを差し上げれば心は明るくなります。一人でも多くの人にそうなって頂きたいと願いながら夜の12時に北へ向かって走り続けている。
そして被災者の人がなかなか言い出せない言葉を引き出しそれに応える。
何が本当に食べたいの?一、二回の訪問では言わない重い口が開く。
肉、鳥の空揚げ、コロッケ!次回訪問時のメニューが決定した瞬間である。
5、6人の修業僧を引き連れ材料を準備して現地入りし要望に応えたタキダシが始まる。
歓びと感謝の言葉に逆に元気を貰うと言う。誰かの役に立っている確かな証がそこにある。互いに絆が生まれる。そしてその輪が日本の隅々に伝わることを願う。
鹿野融完住職(41歳)と副住職弟の男気の溢れるボランティア活動である。
過日はバスを借り切り2拍3日で東松島に30人を送りこみ、泥の排除活動を行なっている
みんなくたくたになって帰るが、その顔はやりきった歓びの表情に変わる。
8月に第二陣を送る予定である。その費用はお塔婆料を引き当てると断言する。
このように継続する支援活動が最も望まれる事であることを知り実践している。


自分もある団体の中で救援活動を行なっている。現地サポート本部と連携を取り現地のニーズに合った後方支援をタイミングよく進めることを優先する。
1 義援金はすでに5月で150万円
2 現地の物資要望に対応(女性下着、編み物、紙おむつ、お米、線香、その他)
3 バザー開催で救援資金の確保
4 ボラティア要員の確保
5 避難者の受け入れ準備
6 絵本プロジェクトいわてに180冊の絵本を子どものメッセージを入れ送付。
以上が取り組んできた中身である。

この難局を乗り越える一粒の塩として継続した活動につなげていきたいと願っている。
後方支援の今後を考えると、支援先が見える仕組みが求められると強く感じる。
支援先をどこにするのか、支援先の顔が見えれば遣り甲斐が生まれる。
心が通う、絆が生まれる。そして継続が約束される。復興の歩みを共有できる歓びを創造する時を迎えている。
東北人の温かい心と恵みに感謝する姿に応える為に・・・・。


遠くに見えるふるさとを  世界の心がとり戻す  東北日本復活を! 

祈る 半澤哲志
16:26 | その他 | edit | page top↑
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